生きがいについて
~今日の人間は幸福について殆ど考えないようである~ 三木清
この言葉は『人生論ノート』の中の「幸福について」の最初の一文です。
一時期は人生の意味について真剣に悩んだことのある私ですが、それは社会生活と年齢を重ねるにつれて、問題は問題のまま、時間の流れと生活の中にそのまま埋もれていきました。
そしていつしか、その自分の中の問題のままとなっている部分から目を逸らすように、アルコールに溺れていったように思います。
私も依存症回復プログラムや断酒例会、AA(アルコホーリクス・アノニマス)のミーティングに参加して多くの人の体験談や人生談を聞かせてもらいましたが、その中でやはり共通しているなと感じた部分は「何かからの逃避」や「慰め」でアルコールに頼ってしまった人が多いのではないかということでした。
もちろんその「何か」は人によって違います。
仕事だったり、家庭だったり、金銭問題だったり・・・。
ただ、私が最近そうした「何か」に対して感じているのは、やはりその根底には「生きがい」や「幸せ」といったものが、大きく影を落としているのではないかということです。
そして依存症の多く人には、そうした幸せな人生への「諦め」の雰囲気が漂っているように正直感じるのです。
確かに依存症だから「諦め」ている人もいます。
しかし「幸せな人生への諦め」みたいなものが、多くの人をアルコールなどへと向かわせている一因なのではと私は最近よく考えています。
ここまで書いていて、自分でもとても当たり前なことを言っているとは思いますが、ここにはやはり当たり前であるが故に根本的な問題が潜んでいると思います。
私は最初に哲学者・三木清の言葉を引用しました。
「幸福について殆ど考えないようである」
私たちは本当に幸せについて『考えて』いるでしょうか?
私たちは学校教育や社会常識、マスコミによるイメージと言うものから無意識的に刷り込まれている「幸福像」に操られていないでしょうか?
良い学校・良い会社・良い家庭・良い生活。
これらのプロトタイプから外れた時から、これまた無意識的に不満や挫折といったものを感じてはいないでしょうか?
そして、その鬱屈した部分に直面しないように、アルコールなどに逃避していないでしょうか?
依存症プログラムを終えて社会復帰したものの、やはり「何か」が欠けている気がしてしまい、無味乾燥しているように感じる日常から逃げるように刺激を求めて再飲酒を繰り返している人もいます。
逆に依存症から回復をしている人は、何らかの「生きがい」や「幸せ」を見つけられたとケースをよく聞きます。
今は日本全国が新型コロナウイルスの影響で大変な時期を過ごしています。
しかし、これは一方で時間の使い方や生活などを見直すチャンスとして、活かすこともできる時期なのかもしれません。
「生きがい」や「幸せ」は大きなものでなくても良いと思います。
これまでの人生はもう終わりました。
これからあなたは何がしたいですか?
そして、それはあなたにとってどんな意味を持っていますか?
意味はないけど生きがいを感じられる。それでもいいと思います。
この大変な時期をただガマンだけで過ごすのではなく、自分自身のこれからの生き方を改めて見つめ直してみようと思っている、今日このごろの私なのでした。